結局、自分のことが大好きなんだという事実
最近ある人の言葉を時々思い出します。
「自分大好きだから」
そこまで交流はないけれど
たくさんで集まる時には必ずいる友人の一言。
私も一時期、この言葉をよく言っていたことがありますが
それは今考えれば、むりやり自己肯定感を高めていたんだと思います。
悪いところがあっても、失敗しても、
人間なんだから当然じゃないか、自分を好きでいよう
というような意味。
でもその友人が言ったのは、自己肯定感的な意味ではなかったと思います。
友人と3人でいた時のことで
もう1人の友人Aが話の流れで「自分大好きだからだよね」と言い
「そうそう。」とBが相づちを打ちました。
私は「そうなの?」と笑いながら答えましたが
話の内容を聞いて妙に納得して
少し心配になったのを覚えています。
人間の行動なんて結局全ては自分のためだろう。
ということが言いたいんだろうなと思いました。
着飾るのも
美味しいご飯を食べるのも
誰かに優しくするのも
誰かに謝るのも。
深くは話しませんでしたが軽く聞いただけでも、色々達観しているところがありそうだなぁと思って聞いていると
「もし万が一、パートナーが亡くなるようなことがあっても
涙は出ないと思う」
なんて言い出して、少し心配になりました。
ただ、涙が出るかどうかと、悲しい、寂しいと思うかどうかは別ですが
Aは「えぇーーー」と苦い顔をしていました。
私も一瞬、パートナーへの不満が!?なんて思いましたがきっとそうではなくて。
どんな人でもいつどうなるかはわからないんだから、というのがBの言い分のようで
いつどうなるかわからないからこそ、考え抜いて生きているのかもなと思ったのです。
やっぱり少し心配になりました。
Bは過去に色々あって
私にも思い当たることは充分にあったので
人がいつどうなるかわからない、というのは実感としてとてもよくわかり、
「誰でも、自分たちでも、いつどうなるかわからないもんね」
と私が言うと「そそ。」とBが相づちを打ち、その話はそれで終わりました。
短い時間だったので、それ以上深い話はしていないし
普段交流がある相手でもないのでそれ以後そういった話をする機会はないのですが
時々思い出してしまうのです。
私は偽善が必ずしも悪いことだとも思っていなくて
少しそういうところで通じ合えそうな相手かもしれないと
勝手に想像して落ち着いています。
偽善であろうと、最終的に自分のための善であろうと、
善には代わりないだろうと思うのです。
結局みんな、自分のことが大好きで
自分のために、自分がスッキリするために、自分が満足するために
動いていることの方が多いのかもしれませんね。